RECORD #03外向的ではない、内向的でもない

ずっと楽しみにしていた、大好きな地元のポストロックバンドのライブにこれから行くというのに、その時の私はもう散々だった。

当時片想いしていた会社の同僚に、もし時間空いてたらいっしょに行きませんか、と声を震わせながら誘ったものの、「楽しんできてください」という社交辞令とともに、あえなく断られた。
それで、この世の終わりみたいな顔をして富山駅前をひとりで歩いていると、見知らぬ男性がにじり寄ってきて、「時間あったら飲みません?」とナンパされた。なんで、今一番誘いたい人にはあっさり断られて、どうでもいい人からはしつこく誘われないといけないのか。そう当たり散らしたくなったが、こらえた。どうせ、車社会の地方ではひとりで夜の繁華街を歩いている女性は珍しいから、目につきやすかった、ぐらいの理由だろう。当然のごとく、「この後ライブに行くので」とさっと断り、女性ひとりでいても話しかけられなさそうな、ライブハウス近くの女性店主が営むバーに駆け込む。窓ぎわの席に座り、繁華街のネオンの光をぼーっと眺めつつ、その中をひとりで自由に歩くこともままならない疎外感を振り払うように、ハイボールをあおった。

いい音楽を聴いて、ぜんぶ忘れよう。もう、私には音楽しかない。一杯の酒で少し浮遊感を覚えながら、そんなヤケみたいな気持ちで、ライブハウスのあるビルへ向かい、フライヤーと煙草の匂いにまみれたエレベーターに入る。すると、いつの間にか後ろにいたひとりの女性が、いっしょに乗り込んできた。
明るい色のショートヘアに、モード系のメイクとファッション。どこか人を寄りつかせないような空気をまとったその女性もまた、どうやらひとりでライブに来ているらしかった。ライブハウスの片隅の真っ黒な壁に寄りかかり、誰と話すでもなく、転換中のBGMを聴きながら静かにハイネケンの瓶を傾けている女性を、私も同じように過ごしながら、横目でちらちらと見やる。あなたもおひとりで来られたんですか。このバンド好きなんですか。私もそうなんです……などと、先ほどのナンパ男のように軽く話しかける勇気は、もちろんなかった。でも、好きなバンドのギターの轟音を浴びて、今日の散々なできごとが入る隙間のないくらいに頭を音でいっぱいにしても、彼女の存在が常に片隅にあった。

ひとりでライブに来る、という結果は同じでも、私は本当は孤独がこわくて、誰かとここに来たくて、でも誰ともそんな関係を築けなくて。マイナーな音楽趣味を自称しているくせに、分不相応な人恋しさで、内心は弱くてぐちゃぐちゃだった。そんな私と違って、彼女には、好きな音楽のためにあえてひとりを貫く強さがあった。孤独をのりこなしているように見えた。その強さが、私には一生身につけられなさそうで、うらやましくて、悔しくて。

10年近く経った今も、ふとした時に、その女性の凛とした佇まいを思い出す。

読書、音楽、映画、美術鑑賞。私の趣味はどれもインドアで、インプット寄りで、自分ひとりで完結できるような趣味ばかりだ。ただそこへ行って、見て、その場にたまたまいっしょにいたちょっと顔見知りの人に話しかけて感想を言い合う……なんてこともせず、帰る。帰った後に、何か言語化できそうな思いが湧いてこればSNSに少しだけ書くけれど、湧いてこなければ無理に言葉にしようとせず、なんかよかったな、という感覚をふわふわと漂わせるままにしておく。傍からは当然、内向的な人間だと思われているだろう。実際、ややこしい趣味をしているうえに、たとえSNSで同じ趣味の人を見つけたとしても、積極的にアプローチもしないから、自然と交友関係も限られる。
宇多田ヒカルの歌詞に曰く、「誰にも言わなくても キレイなものはキレイ もう知ってるから」。確かに、美しいものを見て、自分なりの感性でその美しさを噛み締めるという行為に、他人が介在する必要はない。元彼と同棲を解消して実家にいた時は、この歌詞を思い出しながら孤独をなぐさめ、何とか奮い立たせながら、ひとりで映画館やギャラリーへ出かけていたものだ。

SNSでよく目にする、好きなことに打ち込むためにあえてひとりを貫いている(ように見える)人たちへの憧れもあった。たとえば、ひとり旅。ひとりで住む家や部屋を、自分の心地よい空間に整えていく暮らし。自分の機嫌は自分で取る。私は、どれも苦手だ。どうやったら自分が機嫌よく過ごせるかも、いまだによくわかっていないし、そもそも、自分ひとりだけを喜ばせたってしょうがないじゃん、と内心思っているから。
他人と比べるのはあまりよくないと思いながらも、つい、スマホの小さな画面に見入ってしまう。こんな風に、自分の感性を信じて、他者に依存せずに生きていけたなら。その時その時の人間関係に左右されて、何もかも中途半端な人生にはなっていなかったのかな、と思う。他人の評価なんかじゃ揺れ動かない自分の「好き」を突き詰めて、もっと人に誇れる何かを成し遂げられたのでは、と。

しかし、そんな「おひとりさま」への強がりも、憧れも、夫と出会ってから、あっさり消え去った。ライブや映画はもちろん、外食も、買い物も……仕事の打ち合わせでない限りは、どこに出かけるにもいっしょ。たまにはひとりでどこかへ出かけたい、なんて思いもしない。
夫と付き合い始めてから1年余り。まだふたりきりの時間に飽きるには早いのかもしれないが、それ以上に、やっぱり私は孤独がこわい。同じところへ行って、同じものを見て、感想を共有できる人がそばにいないと、「キレイ」と思う自分の感覚すら信じられなくて、こわいのだ。共有し合った感想は、一致しなくても構わない。むしろ、ちがうほどいい。捉え方や注目する部分が、人によってぜんぜんちがうことを思い知り、世界を見るうえで、私が私というからだに閉じ込められていることの不便さを思い知る。その不便さこそがおもしろいのだ、と思う。自分ひとりの感性だけで知りつくした気になってしまう世界なんて、つまらない。
思えば、本を読むのも、映画を見るのも、人によってぜんぜんちがう世界の捉え方に触れられるのが楽しいから、続けられているのだった。創作物を媒介として、自分の体をどんどん拡張していく喜び、その自由さ。内的世界にこもっているように見えて、視線はしっかり外側へ向いている。

だいたい、たとえひとりで完結した生活を送っていても、SNSに書き込んでいる時点で、その人だって他者とのつながりを多少は期待しているんじゃないだろうか。それをリアルの人間関係に求めるのか、ネットや創作物に求めるのか。家族に求めるのか、それ以外の人間関係に求めるのか、という違いだけで。いずれにしても、人と通じ合える喜びを得られる一方で、意見の相違によってぶつかり合い、傷つくことも避けられない。
そして、きっと外向も内向も関係なく、誰もがその傷を大事に抱えながら、何とか生きているんじゃないだろうか。

私は、顔に汗をかきやすい。言わば、“逆”女優肌だ。特に、初対面の人や仕事の取引先と話していると、とたんに緊張で顔がのぼせて、小鼻のあたりからどんどん汗が噴き出してくる。もしかしたら、オンライン会議の画面ごしでもわかるくらい、(下手したら、酒に酔った時よりも)顔が赤くなっているかもしれない。恥ずかしい。そう意識してしまうと、余計に悪化する。
おまけに、場面に応じて即興で会話をするのも苦手だ。私の思っていることは、まず書き言葉として出力されるので、それを話し言葉に変換するのに時間がかかり、いずれ会話の進行に追いつかなくなる。そうなるともうフリーズするか、文脈も何もない、ただ思いついただけの支離滅裂な言葉をそのまま垂れ流す、壊れた機械と化す。そうなった時の、周りの空気がぜんぶ氷の針に変わってしまったかのような視線の痛さときたら。思い出すだけで、冷や汗が出そうだ。事前に原稿を用意して、一方的に話すだけなら言い淀むこともないので、プレゼンはむしろ得意なのだが。

大型ショッピングセンターも、苦手だ。もともと自律神経失調症ぎみなうえに、視界に情報量が多いと頭がキャパオーバーになるのか、ただ歩き回っているだけでも、異常に体力を消耗する。店員に話しかけられたりなんかしたら、もう最悪だ。薦められた商品を冷静に見極めなきゃ、という思考と、どうやって丁重にお断りするか考えなきゃ、という思考が入り混ざって判断力が鈍り、すべてを放棄して逃げ出したくなる。
だから私はもっぱらネットショッピングか、実店舗にしても、事前にネットで調べたうえで買うものをしっかり決めてから行くようにしている。しかし、一方で、夫はウィンドウショッピングが大好きで、店員との会話も楽しめる、私とは真逆のタイプ。夫の買いものに付き添うたびに、毎回すぐに疲れてしまって不機嫌を隠せず、夫がうきうきと「これどう?」と品定めをしている横で、生気のない顔で空返事をすることになるので、何だか申し訳ない。

本当の私は外向的で、知らない人とどんどん出会って世界を広げたい欲求があるのに、生来のコミュニケーション能力と体力の低さがそれを許さないのではないか、という推察もある。

ついつい家族にべったり依存してしまうから、できることなら気軽に会える友だちがもっとほしい。仕事と家庭以外のサードプレイスも、持っておきたい。でも、できないものはできない。いまだに、顔見知りから友だちまでの間の距離を、どういう会話をして詰めていったらいいのか、わからない。急に距離を詰めすぎて、衝突事故を起こしたこともある。逆に、人間関係で疲れるのがこわくて、距離を置きすぎてしまったこともある。
せめて、好きなイベントやお店に足繁く通って、顔だけでも覚えてもらえれば、とも思うけれど、今日は家でゆっくりしないと体力が持たないな、と外出自体を断念することも多い。こんな体質でさえなければ、もっと交友関係を広げたり継続する努力もできたのにな、という場面は、これまで数知れない。

生まれ持ったものだから、しかたない。無理はしない方がいい、と半ばあきらめつつも、そこをどうにか乗り越える努力もやめたくない。体力の許す範囲で、年一回でもいいからイベントに参加して、直接ZINEを売ったり買ったりして、対面で感想を伝え合えるというのは、やはり楽しい。
最近、周りからも「そんなに言うほどコミュ力低くないよ」という声をぽつぽつもらえるようになってきた。案外、気にしているのは私だけで、苦手なりにあなたのことをもっと知りたいんです、という気持ちは、ちゃんと相手に伝わっているものなのかもしれない。

ところで、私は好きな音楽を聴くためならライブハウスも、DJパーティーも、野外フェスも、行くことに何も抵抗はない。ただ、そこでは歓声を上げるでもなく、音楽を肴にお酒を黙って飲んだり、しみじみと聴き入ったりしていることがほとんどだ。もし、たまたま知り合いがいれば軽く挨拶はするけれど、あくまで、話題の中心は音楽。だから、世間で先行しているらしいパリピ=陽キャ=他者とつるむことを目的に来ている人たち、といったイメージにはまったく当てはまらない。
何なら、私が知る限りでは、音楽イベントの演者も観客も、ただ音楽に没頭することに能力を全振りしている人たち=音楽オタクが大半なのでは、という体感がある。基本は口下手なのに、好きな音楽のことになると流暢に話し出す、いじらしくて愛おしい人たち。
これは音楽以外でも同じことで、たとえどんなに見た目が人を寄せつけがたくても、コンサバでも、その実ファッションオタクだったり、美容オタクだったり。みんな何かしらをよりどころにしながら、人生を楽しく生きているのだろう。
だから、できることなら、普段は交流する機会の少ない人ほど、もっと深く話を聞いてみたい、と思う。成人式以来、同窓会にも呼ばれていないから、地元にずっといるにも関わらず、今どこで何をしているのかもわからない同級生たちにも。小中学校と仲良くしていたのに、19歳でシングルマザーになってから、何となくこちらから連絡しづらくなってしまった友だちにも。今は、どんな仕事してる? 何に熱中してる? 存分に自分語りをしてほしい。年齢を重ねるごとに、どんどん人間関係が閉じていって、属性が似通った人としかつるまなくなってしまうから、なかなか難しいのだけれど。今後の人生、どうなるかもわからない。思いもしなかった人と、同じコミュニティに属すこともあるかもしれない。その貴重な機会を、逃したくない。

初対面の相手にも気軽に話しかけられるほどのおしゃべり好きで、かつ多趣味な夫と結婚してからは、交友関係も行動範囲も、以前より格段に広がった。夫の地元の友だちといっしょにキャンプへ行ったり、ひとりではなかなか入りにくい外見の古い店や、あやしげな居抜き営業の店なんかに思いきって挑んでみたりと、前の私には考えもつかなかったようなことをどんどん体験している。ありがたく思うと同時に、このまま順調に孤独を埋めていくことにも、少し不安がある。
意識は外向き、体は内向き。その葛藤が、創作物への執念を燃やしているのだとしたら。いずれリアルの人間関係を広げる方に傾いて、本を読んだり書いたりすることで人の理解を深める、なんてまどろっこしい方法はやめてしまうのだろうか。

いや、たぶん、人生はそんなに甘くない。少し時期がずれただけで被災していたかもしれない、能登半島沖地震。医療が発達した現代においても、出産で母子ともに命を落とす可能性はゼロではないこと。今の私がいるのは得がたい幸運で、この世は残酷で、いつ崩れるかわからない足元を、まざまざと見せつけられる。それらの、自分ではどうにもならない不条理と折り合いをつけて、何とか生きていくためにも、やはり文章は、私の人生に必要なのだ。

お互い在宅勤務で、四六時中いっしょに家にいるから、おしゃべりな夫は隙あらば雑談を持ちかけてこようとする。それに快く応じて、くだらない話で笑い合う時間も楽しいし、大切にしたいけれど、時には「読書タイムね」「執筆タイムね」と申告して、部屋にこもる。ひとりで本やPCと向かい合う。
私は、集中力はあまりない。特に、執筆作業では、好きな書き手と比べた自分の文章の下手さが許せなくて、ただ悶々と悩んで無為な時間を過ごし、「何でこんな苦しいことをやらなきゃいけないんだ」「向いてない」と愚痴をこぼすのもしょっちゅうだ。
しかし、他の誰とも共有できない、たったひとりで文章と向きあう時間のなかで、ふいに文章の一節と自分の思考が共鳴する。文章にグルーヴが生まれる。その一瞬。頭が凛と冴えるその一瞬を、私の闇雲な人生に灯り続ける一本の蝋燭のようなその一瞬を、忘れたくない。
私がこれから、どんなににぎやかな家庭を築いても。どんなに不幸になっても。決して満ち足りることのなく、しかしどこか心地よい孤独を、抱え続けていたい。

「PINK BLOOD」作詞・作曲:宇多田ヒカル